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Notes From Heaven

8月 16th, 2014 by tsuyoshi No comments »

厚く張った雲からの雨が緩やかになり、強めの風が木々を揺らす。

緑、茶、白のコントラスト。

チェロの響き。

深く曳かれるArcoに呼応してまだ赤くならない紅葉がざわめく。

弓の擦れる音。

視線の先で揺れる雲。

必然と偶然が螺旋を描く

渦を巻いて、眼と耳がざわめき、

天上の悦びに体の芯が静かに止まる

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カザルスの弾くバッハを聞きながら銀閣寺を堪能しました。

すげぇ。すげぇ。すげぇ。

 

銀閣寺

7月 28th, 2014 by tsuyoshi No comments »

今日は、出張にかこつけて京都をぶらぶらしていた。
で、銀閣寺に行ったのだが…

音楽である。

色彩といえば緑と茶色と白しかない。
あるものといえば、古い漆喰壁の木造寺院が白砂の庭を持っており、裏山に庭師の手が入っているだけである。なのに作為と不作為、偶然と設計が調和している。
完璧な、とか絶妙の、といった最上級の形容は不要だ。すべてのものがただ、調和している。

境内へのアプIMG_1806ローチは垂直に切り取られた空間が前座となって、門前の俗世を意識から遠ざける。
山門をくぐり抜けた先にある建物はたったの3つ。檜皮葺だろう、絶妙の曲線をもつ屋根と漆喰壁が明確なコントラストをつきつける。漆喰壁の白は白砂の築山へ印象を連ねている。

 

 

 

 

 

 
凄まじIMG_1812いのは、植木と裏山だ。
目前の人造物の放つ強いコントラストを松の曲線が優しく受け止め、敷き詰められた水苔の基層の上にレイアウトしてみせる。建物の前に設えられた池の水面が持つ平滑さや、松の曲線がもつリズムを漆喰壁と檜皮葺のコントラストが受け止め、整理して空へと解放する。
見るものに圧倒的な快をもたらすコール&レスポンスもしくはコンチェルトがそこにある。

 

 

 
裏山へ続く小道でそれはクレッシェンドを重ねていく。

ちょっとした坂を登って目の前に開ける崖。緑に慣れた目に迫る圧倒的な”面”。

コンチェルトを位相を変え、IMG_1813上から眺めるかとおもいきや更に奥に拡がる京都の街も含めてさらに大きなオーケストレーションを見せる見晴らし台。

膨れ上がるクレッシェンドに圧倒された眼に、さらにリズムを叩きつける何百、何千と繰り返される垂直の杉に歓声を上げ、ふと右へ眼を転じると柔らかな曲線の松を背景にした細やかなもみじのトリル。

モーツァルトのように気まぐれではなく、ベートベンのように運命論者でもない。
言うならば、設計されたかのような即興を生み出したバッハか。

 

 
うん、無伴奏チェロとか聞きながら見て回ったらとても楽しそうだ。

銀閣寺、スゲェ。

バックコーラスの歌姫たち

7月 9th, 2014 by tsuyoshi No comments »

仕事の合間(を無理やり作って)早稲田松竹で見た。ストーンズのコーラスをやっているリサ・フィッシャーが出ているので見たかったのだ。

ドキュメンタリーである。
黒人のバックコーラスがいつ生まれ、どう発展してきたかを説明する前半部からリサ・フィッシャーやダーリン・ラブなどの”バックコーラス専業”が今、どうしているのかを描いていく後半まで濃密である。

後半部で『仕事がなくてスペイン語の教師をしている』と語るのはアイク&ティナターナーやストーンズのコーラスをしてきた女性。ダーリン・ラブは一時期、喰っていけないので音楽から離れ掃除のおばちゃんをやっていたことを語る。マイケル・ジャクソンの葬儀で歌い一躍スポットを浴びた女の子は『バックコーラスは副業』と言いながらもソロでは花が開いていない。

スティングへのインタビューで彼は『売れる、売れないは才能や情熱とは関係ないんだ。状況というか運というか宿命というか…そういったものでスターになる。』とバックコーラスからフロントマンまでの”20フィート”の差を語る。

状況に恵まれていたはずのリサ・フィッシャーでさえ、2枚目のアルバムの制作時に方向性を見失って時期を逸したと語る。

最後に流れる Lean on me はモダンなコード進行にクラッシクなメロディーでものすごく素敵だ。
メインを歌うのは20フィートを歩ききったダーリン・ラブ。そのバックコーラスをリサ・フィッシャーを始めとする20フィートを渡れなかった3人が務める。みんな、嬉しそうに歌っている。

切なくて、切なくて、久しぶりに泣いた。

 

ヴァロットン展

7月 8th, 2014 by tsuyoshi No comments »

光の透明感、アンバランスな構図、手前から奥まで一様に当てられたフォーカス。
作家の感情論はさておき、画面の構成は非常にスタンリー・キューブリックに親しい。
ほぼ、同じだと言って良い。

緑のドアフレームにドレスの女性がいて乱雑な室内を覗きこんでいる作品は、アイズ・ワイド・シャットかシャイニングの1シーンだと言ってもそのまま信じるだろう。

作品に添えられた解説は「女性への基本的不信感」や「どうにもならない不安感」を強調しているが、私にはそれらは感じられなかった。陶器のような質感を持った裸婦像はおしなべてコントラストの端境にトルソが横たわる構図になっており、作家の質感への憧憬、こだわりを感じさせはするけれどそこに基本的不信感は読み取れない。神話シリーズの一部にある[残酷な女性]、[性的に自由な女性]の印象を解釈者が他の作品にまで敷衍しているとしか思えない。

滑るような質感の人物像と木版画で表現された戦争のギャップのほうがよほど、作家の複雑さを感じさせる。

夜想 特集『ハンス・ベルメール』

7月 4th, 2014 by tsuyoshi No comments »

先日購入した、三浦悦子氏の人形写真集に続いて夜想のベルメール特集。

グロい。エロい。

このグロさがベルメール以前にあったのかしらんと思う。

デフォルメされた人形の恐怖とエロをながめていると、普段信頼している自分の皮膚がうたがわしく思えてくる。
存在に対する不安や、愛情が生々しく感じられてくる。
そのように感じ始めている時点で、私の中に”不健全”な感覚が発生している。
学生時代には非常に親しい場所であったこの”不健全な感覚”は金儲けが楽しくなってから久しく忘れていたものだ。

思い出したからといって、それに耽るほど今の私は頭脳に信頼を置いては居ない。
不健全さは、今の私がより信頼をおいている肉体の感覚がそれを嫌う。

でも、ページを捲っていると素敵な目眩に襲ってもらえる。

大丈夫か、俺。

 

コミュニティ乞食

6月 29th, 2014 by tsuyoshi No comments »

セクハラヤジ問題を見つつ、つらつら思う。

2ちゃんねるで野放図なネガティブコメントを書き捨てる人たちと、FacebookやTwitterでのこちらも野放図な”私は良い人間である”アクションを取る人たちがほぼ、同じ集団じゃねーのかと思っている。

人間は場の流れに同調する生き物なので、それ自体は全く何の問題もないのだけれど、2ちゃんねるが匿名で閉鎖的であったのに対してSNSは実名で公開性が高い。さらに記録性も高い。なのでフィードバックも強い。そうすると自己認識形成が強化されてものすごい速度で「私、良い人」が大量生産されていく。っつーか、ネガティブな方向は強化されづらいので「私、良い人」方向にしか強化されないようになっている。

それが社会ってもんですよ、ツールが違うだけで何時の時代もそうですよ、とも思うのだが、マスメディアがフィードバックを担っていた時代にはオピニオンリーダーへの集約がもっと極端で管理しやすかった。少数のメディア、オピニオンリーダーを抑えておけば世論形成(ブランディングと言い換えてもいい)が出来た。今は、SNS、Line、メール、ブログによって巨大な”私、良い人”基盤に乗っかって、少数グループ内のオピニオンリーダーに率いられた多数の集団がマスメディアや2ちゃんねるもちら見しつつうじゃうじゃと議論している。

それって、すんげぇ気持ち悪い。

素人がぼやっとした情報となんとなく形成された”私、良い人”基盤を元に断定的に語り、人に同調を求める姿ってのは…”コミュニティ乞食”と呼ぶべき卑しさを感じる。そうした卑しさへの嫌悪は先に述べた”人間は場の流れに同調する生き物なのでしょうがない”という諦念と明らかに矛盾するんだけど、でも気持ち悪い。

僕はリアルなセクハラや、就職難や、DVや貧困や薬物や…を経由した人の判断や意見を信じ、僕自身の判断に優先させたい。日和ることになるかもしれないが、乞食になるよりマシだ。
で、そういうことのできる情報基盤はないものか、と思う。

 

かもめのジョナサン完成版 [単行本] リチャード・バック

6月 28th, 2014 by tsuyoshi No comments »

30数年前の僕はこれ(第三部までのやつね)を読んだあと、三日ぐらい呆然としていた。

当時の僕は「メガネをかけて運動のできない、小太りの勉強ができる子」で教師からいじめられていた。
”ジョナサン”の飛ぶことに集中し何やら宗教がかって進歩していく様子はさておき、僕が呆然としてた理由は「好きなこと、やりたいことをやってもいいんだ」という強烈な気付きだった。

自分がやりたいこと、興味が有ることをやるにしても、当たり前に周囲から批判はある。批判に背を向けてもいいだろうし、検討材料として取り込んでも良い。ただ、批判や攻撃されたからといってそれは悪ではないのだ。僕とは違う価値観を持つ誰かがそれを悪だと呼んだところで、僕がそう思っていなければ、それは善ですらあるかもしれない。

オトナになったいまでは当たり前に感じられることすら、毎日教師に”阿呆”、’’デブ”、”ガリ勉”呼ばわりされていた僕には強烈な救いだった。
テストでクラス最高点をとっても罵られるという毎日の惨めさは全く変わらなかったけれど、自分に価値がないとは思わなくなった。

というわけで、今回付け加えられた第四部は全く蛇足だ。栄光の教条主義への移行、第一人者がその教条主義の外側に居ること…いまさら説教垂れられなくたってそんなこたぁ身にしみてらぁ、と悪態の一つも吐きたくなる。

ただ僕が大好きなこと - 努力する人たち、空をとぶこと、信条を行動に出来る人たち - がこの本の影響であるのは間違いない。

三浦悦子人形作品集 聖餐

6月 28th, 2014 by tsuyoshi No comments »

グロくて、ゴシックな人形の写真集。

僕は人形が苦手だ。夜中に動き出して歩きまわったりするんじゃないかと考えたりするだけで怖気立つ。
この写真集の現物の人形を見てしまったらおっかなくて泣いてしまうかもしれない。

が、きれいだ。

腐った果実が色彩を増すように、人形に落とし込まれた感情や現実はイマジネーションの枠を抜け出し現実に特異点を創りだす。
腹に詰め込まれた食物を官能的にさらけ出す女性や、頭を切り取られた上半身で無表情に佇む母親、楽器のボディをもちケースに入っている少女。誰もまばたきせず透き通った瞳でただこちらを見つめている。

デフォルメされた人体のデッサンは恐怖ではなく畏怖を引き起こす。

 

小指物語 二宮 敦人

6月 21st, 2014 by tsuyoshi No comments »

自殺をキーにしてメフィストフェレスと僕が織りなすダークファンタジーのだが、さっぱり面白くない。

自分が自分を殺すことが十分にハイライトされないうちに方法論を語り始めるので、ストーリーやプロットへの興味が浅薄になる。展開されたプロットも散発的でそのシーンを構成するだけの役割しか持っていないので、生煮えのテキストを読者は自分で噛み砕いて行かなきゃいけない。

各人物の造形も浅い。SNSのプロフィール欄ぐらいの深みしか無い。

作者の力量不足が明らかである。幻冬舎はこの程度の本しか出せなくなったか。

 

ヴォネガット タイタンの妖女

6月 11th, 2014 by tsuyoshi No comments »

アイロニーオジサン、カート・ヴォネガットはいつも意地悪だ。

僕らの人生はほとんど何の意味もなくて、でも優しさや愛や裏切りや身勝手は僕らの中にあって、僕らを嬉しがらせたり悲しがらせたりするけれど、でもやっぱり意味があるかといえば僕が僕である程度の意味で…

そんな皮肉な世界に暮らす僕らでも誰かに「よろしく」の一言を伝えられれば、もっともっと素敵な世界になるかもしれない。

でも、それをするだけもたくさんの犠牲と努力と涙が無駄になるかもしれない。

一生懸命やっていたことが、誰かの些細な取るに足らない満足のためだけの行動なのかもしれない。

でもさ、優しくされると嬉しいよね? だったら、優しくしてあげたいじゃん?

優しくしてもらわなくてもいい、なんて言わないけどさ。 隣にいるぐらいはいいよね…

という具合にオジサンはもじもじしながら、でも意地悪にやさしいお話をしてくれるのである。