書店でジャケ買い。ぬるい。
絶望も希望も喜びも憎しみもぬるい。
宮沢賢治をリミックスしたつもりなのだろうが、天然ものの鯛をわざわざシチューにしたようなもったいなさ。ホテトルの少女も出会い系のサクラの兄ちゃんも、アルツハイマーな父親の看護に疲れる母親もそれはおそらく、ネネリやブドリや叉三郎なのだろう。ネネリやブドリや叉三郎は宮沢が生きた時代のリアリティと対応しており、これらと同等のリアリティを今に求めてゆけば、売春少女やひきこもりくんになるのだろう。
でも、そんなのニュースで充分じゃない??
ニュース以上のリアリティを小説が持とうとするのはもう無理だと思う。私をそうさせたのはインターネットだけれど。ニュースに対応してあちこちのブログで議論が始まり、掲示板でも同情や皮肉や侮蔑が溢れていくのに、なぜ再構成されただけのものに感動できるだろう??
とれたての活け造りを食べてられるのに、なぜ塩漬けのしかも下手なシチューをくわにゃいかんの?ということです。
リアリティを煎じ詰めてファンタジーにしちゃうキチガイさ加減、それでも仏教に根本を置き続けた宮澤とポストモダン後に世界構造とテキストの区別がつかなくなった現代作家との奇妙な合致が楽しめはする。「主張や世界観はあるが、まるで機能しない」という。そういえば本書には呆けた老人が多く登場する。
「4月の気層の光の底を 唾きしはぎしりゆききする 俺はひとりの修羅なのだ」と自己を嘲けた宮澤に共感するには、現代には選択肢がありすぎる。あぁ、だから「グレーテストヒッツ」なんだ。








