姉のブログにコメントしたテーマだが、コメント欄で展開するには文章の量が大きくなりすぎるなぁ、ということで自分のとこで語ることにした。
「デスノート(少年ジャンプに連載されてた、テクノスリラー系SF漫画)とトマスピンチョンが知性の点でそれほど差がないので、知性はコモディティ化している」というコメントを、姉のブログにしたのだ。 まずはこのテーゼを前後半に分解する。
「デスノートとトマスピンチョンが知性の点でそれほど差がない」 ので 「知性はコモディティ化している」
となる。
前半は、わりとどうでも良い。 「知性はパーソナルなものである」と姉もブログでコメントしているが、こうした判断はそれこそパーソナルなもので、わざわざ考えるまでもない。 あんたが、同じだと思えばおんなじなんだよ。ロックンロール。
分量が必要なのは、「知性はコモディティ化している」の方。 知性は属人的であるとともに社会の共通項でもある。こいつが、コモディティ化するのか??出来るのか??と。 ということでまずは”コモディティ”の字義を確認。
コモディティとは、日用品で、消費者がどこのメーカーが作ったものかにこだわらず、基本的な機能さえ備わっていれば購入するものです。塩、砂糖、茶碗・皿、なべなどの食器、ティシュペーパー、くし、くつべら、ビニール傘などがその例です。ブランド要素が 明確でない、他商品との機能・ベネフィットの差異を消費者が認識していないなどのためにブランド構築がされていない状態です。企業にブランド構築をする意 思がない場合、意思はあるが成功していない場合、ブランドを築きにくい製品カテゴリーであることなどがコモディティになっている要因です。
んー。簡単にすると「その辺にあるありふれたもので、何を買ってもたいして変わんないもの」なんだな。
元来、知性はどこから調達しても同じものでもなければ、そもそも調達コストのレベルで語れるほど、調達コストそのものが安くなかった。 例えば”プロとしての経験知”を得るためには、10-20年の修行期間が必要であって、こういう知性の調達は当然結構金がかかるのでコモディティとはいえない。調達した知性そのものも、多分に属人的要素が多く、従ってユニークであるのでコモディティではない。
「何を買っても大して変わんない」モノ=コモディティ化した知性があるとすれば、同じ入力に対しては大枠において同じ出力を返すようなものだろう。
思考実験をしてみよう。
今ここに、インド人、日本人、アメリカ人がいるとする。 この3人から、全く同じ次のような出力を得たとする。
「資産の20%はアクティブなベンチャーキャピタルでリスクマネーとして運用し、残りの80%国債を買いましょう」
おそらく、入力も同じであったはずだ。資産状況、望むリターン、これまでの運用実績etc。同じ入力から同じ出力を返したので、この3人の知性はコモディティ化した、といえるわけだ。
じゃぁ、全く違う出力が得られる可能性はどれだけあるか? 金融取引に必要なコストは下がっており、資金調達コストも同様。 情報取得コストも急降下中だ。 すべてがイコールコンディションだったら、いみじくも論理的な判断が下せるだけの”知性”であれば、同じ出力を返すのではないだろうか?
と、すれば、だ。
流通機構やITの発達によって、情報伝達・取得コストがゼロに近づくほど知性はコモディティ化する、といえる。ならば結果として、知性の結露である作品もそれが大量生産可能なメディアで表現されている限り、コモディティ化する。
テクノロジーによるコスト削減を基盤としたコモディティ化の流れは、特に知性において顕著だ、と言えるかもしれない。 WikiPediaを見たまえ。いまや、だれもが百科事典を書ける。
であれば、少年ジャンプで知性が配布されても良いではないか?? 既に知性の調達コストはほぼゼロなのだから。
