友人のブログに書いてあった「上手に歌うとはどういうことか」に触発されて少し、書いてみる。
世の中のひとはすべからく、生きている限りは誰かに何かのメッセージを送りつづけている、と僕は思っている。
会社で企画を立てていても、営業していても、ネジを作っていても、それらは「俺の存在意義をのこしてやるぜぇ」だったり「家族を養っていくぜ」だったり、なんらかの意図を持って実行されている。なんらかの意図をもっている以上、それはメッセージである。
飯を食っていても、歩いていても、寝ていても、常に我々はなんらかのメッセージを誰かに向けて発信しているのだ。
表現とはこうしたメッセージをより純化した形で届けることに他ならない。
力強さであったり、明日への希望であったり、ときには絶望であるかもしれない。または特定の何かへの特定の感情かもしれない。「塩大福が大好きだ」とか「このエビが旨そうだ」とか「あなたの事が大好きだ」とか。そうした”意図”に説得力を持たせる事が表現なのだ。
したがって、表現者に必要なのは「メッセージをより正確にしかも大幅に増幅して届けられる」技能だとおもう。技能、つまり技術と能力だ。芸術を意味するArtという単語はArte、つまり技能を語源にしていることからも、数々の技量を組み合わせてこれを実現するひともいるし、神様にもらった才能でこれを実現するひともいることからも「技術」と「能力」の組み合わせが大事であることが理解してもらえると思う。
表現するべきメッセージをまず本質的に理解するところから、表現は始まる。努力してか、本能的にかは問題ではない。”何を”表現するべきかを、理解しなければ当然そのメッセージは伝わらない。
何を、が理解できたら次は”何を使って”だ。メッセージを伝えるためにもっとも効果的な演出、方法を決めていく。この段階では”技術”がものをいう。どういう技術がなにを伝えるのかを理解していれば、効果を図るのも簡単だ。さらには、磨きこまれた技術はそれだけでも称賛に値する、という事実もある。バッハの無伴奏チェロ組曲でYoyo Maがつかうビブラートは楽曲自身の数学的な美しさに人間的な情緒を付け加え、まさに人生の喜びを感じさせるレベルの、技術になっている。
こうしたレベルに達していないときにどのように技術をとらえ、表現方法を決定していくかだが、メッセージの本質を表現するものが理解しているのならば、その段階で利用できる技術を組み合わせていけば良い。あるいはパンクロックのようにあえて一切の技術を捨て去ることでメッセージを成立させてもいい。
メッセージを運ばせるのに適当でない技術を使用することは、メッセージそのものを圧殺する。この部分において「芸能」と「芸術」は圧倒的に異なる。芸能においては技術のみが評価されるといってもいい。客はメッセージを見にくるのではなく「技術」そのものを見にくるのだ。「金をかけて作られ、多数のスタッフによって構成されたアイドルのコンサート」なんていうのは、その精緻さと巧妙さにおいて完成された技術である。そこで演じているアイドルたちにはなんの能力も、メッセージもなくても成立するのだ。Artistであろうとするのならば、技術にももちろん敬意を払わなければいけない。しかしながらそれが伝えるメッセージの本質を理解し、より増幅することに意識を向けなければそれは、Artではなく芸能である。この点を理解しないとすれば、仮に同じレベルの技術をもっていたとしてもその位置付けと評価は全く違うものになるだろう。
まぁ、心をこめてやればカラオケボックスであってもヒトのココロはグラグラ動くって事だよ。