孫子の兵法から戦争続きで「坂の上の雲」文庫版全8巻を一気読みした。
坂の上の雲
明治維新から日本という若い国家が「坂の上に見える雲を追いかけるように必死に背伸びする様子」を3人の伊予人の人生を通じて描く司馬遼太郎の代表作。
孫子兵法と続けて読むと、例えば彼我の機械的な能力差である戦艦の砲数、トン数の差がそれほど無かった日清戦争の黄海海戦においては兵の練度が勝敗を決定していること、彼我の戦力差が25万対37万と1.5倍ほどの不利にあった奉天会戦では陽動作戦や「旅順を落とした乃木将軍の軍隊」というプレッシャーが詭計となりロシア軍の判断ミスを誘っていることが印象深く読み取れる。映画にもなっている203高地の戦闘では「我が全力をもって敵の分力を討つ」、つまり戦力の複合的な集中運用によって敵の弱いところを取ることのメリットがよくわかる。
またマクロな視点で見ると満州および朝鮮半島そのものが列強がプレゼンスを競い合う「衢地」となっており、孫子によれが「交を合す」、つまり外交によって自らに有利な状況を作るべき戦場であった。国力のなかった日本としては最終的に英国、ドイツ、アメリカなどの仲介によって講和を結んでいる。
さらにこの戦争の上部構造として司馬遼太郎は「帝国主義の時代」を指摘する。喰う側か、喰われる側かというわけだ。坂の上の雲を見上げていた日本としてはやはり「喰う側」になる、つまり「植民地を持って経済運営を行い、覇権国家となる」のが戦略目標でそれこそが「坂の上の雲」だった。
ところで…
現在の「完全競争資本主義」とも言える流動性の高い資本市場では「買う側か、買われる側か」という新たな帝国主義がある様に思う。80年代には買う側であった日本も近年では買われる側にまわっている。ただし買われる側とは産業リソースであるということを意味するが、少子化はそうであることに決定的な不利となる。
となれば効果的な財の蓄積を持って「買う側」にまわることが国家の目標となるべきであり、短期的に実現されなければ日本の価値は加速度的に下がっていくことになるだろう。
少し話題が飛躍しすぎた。
関連性を確認しつつ読めるということは、孫子の時代から日露戦争までの戦術原理には差がない、ということだろう。
ならば、現在のビジネス競争との関連はどうだろうか?
引き続き、考えていく。