ウンベルト・エーコによる「バロック小説」を2年ぶりに再読。ストーリー展開に情緒を求める人にはまったくお勧めしない。
ポストモダン小説によくある階層構造であるメタフィクションと共に、バロックな気分の象徴でもあるだろうアイコニズム、それらと非常に相性の良い、ウンベルト・エーコならではの気合と技術のともなった衒学的意味論が脳みそをこれでもかとかき回してくれる。
イメージと技法に酔っ払ったようになりながら、毒にも薬にもならないプロットを読み進んでいくうちに存在論の迷宮に叩き込まれて突如としてうろたえるハメになる。ただ、この「うろたえ」を味わうためにはあくびの出そうな「鳩の意味」論や「どこかに生き別れの双子の兄がいるはず」という主人公の妄想に付き合わなくちゃいけない。
で、読後に何が?
ウンベルト・エーコが創作した「語り手」が「ロベルトと言う主人公が残した日記」を基にロベルトの漂流を再構築するのだが、ロベルトはロベルトで憧れていた女性と生き別れた兄とのロマンスと冒険を夢想し、さらにこれらの狂言回しとして以下に経度を決定するのかに絡めて日付変更線の向こう側は別の日 - 線をはさんで向こう側は、すぐそこで同じ時間が過ぎているはずなのに別の日付である - という簡単な混乱、共感魔法というバロックらしい小道具によって、誰がどの視点で何の話をしているのか、万華鏡のように様々なパターンを読者は駆け抜けなきゃいけない。
たかだか一冊の本を読む間に視点変位を繰り返させられた僕は軽い眩暈というか「プロット中毒」になっている。いくつもの結末が不明なプロットを解決したいのに、その手がかりは信用できないか、そもそも与えられていないか、最初から「これは妄想だよ」と突き放されているかだ。情緒や感情をプロットのなかで昇華/消化させることで読者がカタルシスを得る、というタイプの楽しみ方は拒否されている。
「だからさぁ、たかが小説じゃん? 意味とかさ、信憑性とかさ、愛とか友情とかは現実世界でやんなよ。そっちの方が楽しいでしょ? 小説では“言葉の魔法”を味わうのが良いんじゃない?」とエーコ先生がほくそえんている気がする。
悔しいがその魔法は、訳者のチカラの抜けたスマートな翻訳も相まってピカイチに美味しい魔法である。ご馳走さまでした。