レクイエム アントニオ・タブッキ

3月 2nd, 2008 by tsuyoshi Leave a reply »

友人にガルシア・マルケスを貸したらお返しに貸してくれた本。イタリア人がポルトガルのリスボンで生きている人、死んでいる人と出会い、語る夏の半日をつづった小品。

全編、一人称で語られていく。が、発言しているのが「私」なのかその時会話している相手なのかが会話のリズムと内容から読み手が判断していかなければいけないようにかかれている。ここでコンテキストとテキストは境界線を曖昧にしている。さらに「私」が会う人たちで生きているのは「私」がはじめて会う人たちだ。「私」の友人はみな、死んでいる。「私」は死人と語るために生きている人たちの助けを借りて、リスボンの半日を送る。また、作中に出てくる食い物がやたらと美味そうなのも印象的だ。

この小説が、作中で最後に「私」と飯を食うポルトガルの詩人への鎮魂歌〈レクイエム〉であるのだとすれば、このような体裁になるのもむべなるかなである。詩人の魂が作家に同化し、内なる対話がなされているのだとすればテキストとコンテキストは対位ではなく同調し、見分けがつかなくなっていくだろう。作家の血肉になった”ポルトガル”が現実感を持っていなくても、それはすでに幻想と現実の区別をする必要もない解釈不要な実体なのだから、現実感がないのも当たり前だ。

そうした気安い脱構築を見せながらも「プロット、アバンギャルド、ミニマリズム、具体的事実、ポストモダン…心地よい物語はどうすれば語れるだろうか」と作家はメッセージしてくる。そのくせに本作はプロットで構成され、アバンギャルドな世界観を持ち、ディテールとシーンの描写においてミニマリズム的であり、ポストモダン作家へのオマージュに満ちたレクイエムである。最後のシーンが海辺のレストランで「文学にちなんだヌーベルキュイジーヌ〈新しい料理〉」を「ゲイのウェイター」がサーブするのも、文学的玉手箱ないしは現代文学幕の内弁当ともいえそうな本作を象徴するだろう。あるいは、作中でも触れられているボスの絵画と相似するのかもしれない。世紀が変わり、国家がアイデンティティーをなくし、ボーダーレスでフラットな価値観が拡がっていく時代において、土地の文化と不可分な「文学」や「料理」は過剰なディテールにあふれ背景を理解しなければ意味のわからないアクセントにまみれた奇怪な精密画になっていくのだ。

しかし、イタリア人というのは!! ラテン/ローマ文化は酔狂をやらせたら筋金入りである。「お話になってないお話」を能書き抜きで出版し、おもしろいと感じさせることができる。すごいもんだ。

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