こないだブログで書いた24,000個のスーパーボールが轟音を立てて坂を転がっていくやつとかペンキで花火をやっちゃうやつが、2年前のものであることに遅ればせながら気がついた。
で、ふと考える。
紙や電波で流行が「モード」が作られていた時代ならば、テイストや新鮮さの経年劣化はものすごく大事な要素だ。
デジタルでどっさりと積み上げられた「情報」は切り口を変えたりとかしなくても、常に「こりゃ何じゃ!新しいぞ,これ!」と叫んでくれるオーディエンスをどこかに持つことができる。
っていうのが、Web2.0のときに言っていたロングテールだ。
立ち上がった「ハイネック」の部分が紙や電波で作られていたのだとすると、そこのところの地盤沈下が首のところを低くするのかといえば、おそらくそんなことはない。
人のホルモンがサル/哺乳類である以上、よってたかって騒ぐのは必然だから、キャリアを変えてショーは続く。
どさ回りの芝居が新聞や雑誌になり、ラジオや映画からテレビになり、そしてネットになる。
少し斜に構えて、モードの伝播についての品質や効率はいっさいかわっちゃいねーんだよ、媒体が変わったとしてもクソみてぇな流行が繰り返していくのは変わりなくて、相変わらずクソみてぇな大衆が世の中を刺激的になんかしてくれやしねぇんだ、神とロックンロールは死んでるのさ、と言ってみてもそれはそれで正解なんだろう。
で、律儀な蟻のような大衆のみなさんによって集積されたデジタルな情報は何かのタイミングでひょいと復活する。モードなんか一切関係なく。で、僕のようにずれた時間軸で興奮するやつがいっぱいでてくる。ただ、こいつらはモードからは切り離されているので、その盛り上がった気持ちは虚しく空振ることも多いってわけだ。
最近、時代の空気というものが密度を失ってきているような気がする。80年代にも、90年代にもなにかしらそんな空気はあったような気がする。冷戦が終わったとか、資本主義的パワーゲームがリアルになったとか、そんな時代の方向感を決めていた”空気”があったような気がする。この空気、コンセンサスが失われてきたのがネットの所為だとは言わない。逆に、新しい伝播媒体の中で、空気を作る、コンセンサスを醸し出すような強力なリーダーシップや仕組みがまだないってことなんじゃないかな。
そうすると、チャンスはまだまだいっぱいあるってことだ。