Archive for 2008年11月

文化移民 藤田結子

11月 30th, 2008

ニューヨークやロンドンに「ダンサーになりたい」とか「絵描きとして成功したい」など”文化的な成功”を志して移住や長期滞在して行く若い日本人を出発前、滞在中、帰国後を追っていき「なぜ行くのか」、「行った後にその地域への帰属感は生じるのか」を解決するべき疑問として展開する文化人類学の論文である。

とてもおもしろかった。以下箇条書きで興味を持ったポイントを示しておく。

  • N.Y.は外国というよりもTV、映画、雑誌などの情報で既に「日常の一部」となっている。
  • 日本では”人種的等級”が「標準」であったが、現地では少数派であることを学習せざるを得ない。その結果として「時間に正確」「几帳面」「議論をしない」などの”ステレオタイプ的日本人アイデンテイティ”を知らず知らずのうちに強化する。
  • ロンドンに行くグループは「英語が喋れるとかっこいい」とは思わず「英語は現地での活動に必要な道具」と考えている。
  • が、実際には英語をツールとして仕事や新しいコミュニティに参加していくほどのコミュニケーションスキルはない
  • 日本人女性はボーイフレンドが見つけられるが、日本人男性はガールフレンドが見つけられない。それは人種的序列、英語力などのコミュニケーションスキル、経済力など「文化資産」を男性は持っていないが、女性はエキゾチシズムが文化資産となり得るからだ。
  • 本来彼らが志した”文化的成功”はその基準がThe West/西洋で確立されたものであるので「文化資産」に乏しい日本人の若者では成功が難しい。それは反作用として内的な日本性を強化することに結びつき、トランスナショナルなアイデンテイティは出現しない

「日本が国際的に存在感を増すチャンスだ」っていうエントリをこないだかいたのだけれど、それが「何かを当然とした基準」で展開されるとやっぱりいかんのだよなぁ、と再確認もした。そういう基準をセットすると、それから外れる文化の人たちをはじき出し、反作用としてその人たちのイデオロギーが純化し、ひどいときは原理化して面倒くさくなっちゃうからだ。
同時にそういう原理化はもっと日常的に、国内の職場とか学校とかの小さなグループでも起こっていて、いじめの根拠になってるんじゃないかという気もする。

就職もままならない国内よりもTV、雑誌等で活発な文化活動が伝えられる海外の方が成功の可能性が高いように感じ、渡航を決めた若者たちが英語の習得よりも同じような若者どうしでの交流や英語を使わずにすむ日本レストランや日本人向けパブなどでの不法就労で月日を過ごしてしまう姿は、なんだかすこし哀れだ。研究論文なので淡々と観察された事実が述べられて行くのだけれど、”日本で彼らに起こらなかったこと(当該分野での成功や他者との積極的な交流)は海外でも起こらない”という記述が、リアルに彼らを表している。

しかし、こういう側面をどのようにさばいていくかがおそらく将来移民を受け入れていく必要がある/アジアで存在感を出さなきゃいけないこの国にとっては大きなテーマじゃねーかなとも思う。

コミュニケーションスキル

11月 28th, 2008

金融危機は2つの影響を日本企業に与えているように思う。
ひとつは世界的な需要の低下による業績の下向き圧力であり、もうひとつは世界が地盤沈下したことによる相対的な地位向上だ。「保有株式の含み損」とか「各国債権の劣化」なんてのはまぁ、めんどくさいので措く。

相対的な地位向上によって経済的大東亜共栄圏構築が − 誰がリーダーシップを取るかはさておいて − APACな僕らとしては大事だなぁと思っている。 NAFTAとかECとかBRICsとかG8とかG20とかいろんな枠組みがありはするものの、お年寄り国家日本が発展するためには「小金と知恵をもつ大叔父さんが近所の青年を表裏になりつつ支えて見返りをもらう」図が望ましい、と僕は思うからだ。まぁ歴史認識とかめんどくさい話はやっぱり措くとして、大叔父さんとして成立するためには仕様書と注文書のやり取りだけではやっぱり浅い。ひざ詰め談判がきっちり出来なきゃいけない。

で、本題。

言語とか文化の壁って言うのは上の論で「措いた」ところに乗っかっている部分が大きい、と僕は思う。
生まれたときから電気・水道・ガスが有りますって言う人、なかったよって言う人、ニンテンドーはあったでしょ?って聞く人ではやっぱりコミュニケーションの基礎が違う。そもそも人と相対するときの気合からして違う。バンコクのタクシー運転手と東京のタクシー運転手がまったく違うように、だ。

じゃぁ、ということで郷に入って郷に従うのは、実は良くないんじゃないかとも思う。郷に従った時点で相手のホームでやることになるわけだから、相手にアドバンテージを与えることになる。彼我の差が歴然としている場合以外にはあんまりいい選択肢じゃない、と思う。では、ということで郷に従わないとすると…「文化的侵略者」または「異質なモノ」としてコミュニケーション対象から外れる。なのでこれもダメ。「コミュニケーションの手法、方法は相手のものだが言っている中身は自分のもの」っていうのがよさげなのだが、そのバランスをとり続けるのはやっぱり難しい。

でも、この国にとって今が胸を張って、アジアのリーダーになれる50年に一度のチャンスなんだろうとも思う。
さて、僕に何が出来るだろうか。

友人の結婚式

11月 26th, 2008

一昨日の日曜に友人の結婚式と披露宴、そして盛大なお披露目パーティに招かれ、出席させていただいた。
素敵なチャペル、おいしい料理、新婚夫婦の豊富な人脈による多彩なゲストと、ともすれば本来の趣旨である「お祝いをさせていただく」気持ちを忘れそうになる楽しい一日だった。

いつも思うことだが、女性は子供を生んだときと結婚式が一番美しい。
今回の花嫁とはかれこれ5年近い付き合いをさせていただいているが – 大変失礼ながら – とても綺麗な花嫁姿にビックリした。小柄な体格と明るい性格が目くらましとなり、容姿が素敵であることを見逃してしまっていたことに気がついた。ともちゃんは美人さんだったんだねぇ。

で、残念ながら花婿はタキシード着た添え物になることが多い。が、今回の新郎は卑怯である。
自分の得意技である「歌」を披露宴とパーティで繰り出し、タキシードを着た添え物から当日の主役に鞍替えして見せた。僕がやるとすると…ベースソロだもんなぁ。ちょっとお客さんにリテラシーを要求するよな。ちくしょう。うらやましいぜ。

同じモノゴトに対して同じコトバで会話ができる相手と一緒に生活できることは、滅多にないシアワセですが、今回のご夫婦は音楽で同じ言葉を交わすことができる。それはとてもシアワセです。音楽だけでは解決しないことがあるのかもしれませんが、まぁそんなことはきっと大したコトではないでしょう。大切なのは、いつもお互いを気にかけてくれるだれかが同じコトバを喋っているということです。そのようであれば、問題はいつの間にか無くなるのです。

素敵な1日でした。
引き続き仲良くさせていただければ私もシアワセです。

リーダーの仕事

11月 25th, 2008

私の履歴書は長い。
転職歴が10社ほどあるので、標準書式の履歴書ではほぼ収まらない。
ほんの数人で立ち上げた会社から、世界中で何十万人という組織までいろんなところで働かせていただいた。

で、思うのだけれど。

例えば「事業戦略」とか「業績予想」なんてのは立てた時点ではほぼ、法螺である。
一応の市場調査とかはあるけれど、確信を持って業績予想をしている人ほどご自分の論理に凝っていらっしゃるようである。逆に確信など持っていない方のほうが、柔軟で使いやすい業績予想や事業戦略を構築できている気がする。

が、なんといっても未来のことを予想しちゃうわけだから、そりゃしょうがないのである。既存のファクターから将来のことがきっちり予想できるのならば、そういう人は競馬の予想屋になったほうがよほど儲かるはずではないか。
ある程度のいい加減さを組み入れておかないと、追い詰められたときに逃げ場がなくなって極論に走るか、その議論を無かったことにするしかなくなっちゃうのである。

が、いうまでもないけれども、会社とか事業の経営/運営はいかに「予想」を実践するかを求められている。
もっとラフに言うと法螺を実現する、と見得を切っているのがいわゆるリーダーなのである。

競馬と違うのは自分がそのレースを走ることだ。
いろんな状況を自分に有利になるように調整できるし「みんなのゴールはあそこだけど俺のゴールはこっち」と競争そのものを変質させることも出来る。
使える手は何でも使って法螺を実現させられるかどうかがリーダーとして正しいかどうかだ。

使える手がどれぐらいあるか、は − これまた乱暴な議論だけれど − どれぐらいのファイナンス能力があるかによる。ファイナンス能力とはどのぐらい「それっぽい」法螺を吹けるかなので、大真面目に法螺を吹ける奴がリーダーとしては望ましいと言える。

そういう理屈から言うと、上場とは「あなたのお金を預かって増やします。そのやり方はこれこれこう…」とまじめに大法螺を吹いてまじめに実現に取り組むことなのだけれど。
まじめに大法螺を吹く奴もいなくなったし、実現に取り組む奴も少なくなっているようだ。
気合をいれて - 気合を抜いて、かな - 法螺をぶち上げるリーダーがいなけりゃ、金も人も集まらないぜ。

戦略の耐えられない軽さ

11月 19th, 2008

女の子を後ろから抱きしめ、自分の足の上に女の子の足をのっけてベッドルームまで行くシーンが好きだったな。

それはさておき「戦略」である。
例えば「ニッチトップを狙う」は戦略かと考えると「狙う」って言ってる時点でそりゃ目標じゃねーのと。
「ニッチトップを獲得するためにリソースを開発に集中運用し、当該セグメントで圧倒的な機能差を獲得して競合他社よりも少ない営業パワーで効率的に販売する」だと戦略チックな気が(僕は)するんだけど、人によってはそれは戦術だという人もいるだろう。
「低価格戦略で市場を攻める」とかっていうのも「そりゃ方法論だから戦術じゃねーの」と僕は思うんだけど、結構「戦略」として取り扱われる。

先日、とある営業マンから「ひろせさん。ランチェスター戦略って知ってますか?」と問われた。
「ランチェスターの設定した戦争理論なら知ってますよ。バトル・オブ・ブリテンのやつですよね。」とケツの穴の小さい答え方をしてみたのだが…
武器の性能と兵隊の人数の積と有効距離が敵への「インパクト」を決定して、それを全面的に用いるか局部的に用いるかで勝敗が決まるみたいだね〜という理論で、先に上げたニッチトップの取得とか弱者/強者の対比での方法論とかで最近取り上げられているようだ。
で、これもやっぱり戦略というよりも戦争の技術論だと思うんだよね。

何が戦略であるとか偉そうに定義するつもりはないんだけど、方法論にまつわるすべてを「戦略」とくくってしまうのはとても嫌いだ。
最近のTVで「とてつもない」とか「信じられない」とか「ありえない」っていうフレーズが多用されるときに感じる、なんというか…そう、「出来の悪い見せ物感」を感じるのだ。

「戦略」とほざくその5分でテレアポ5件かけたほうがよっぽど生産的なんじゃねーのか、と言いたくなるときがある。

My SpaceとかFacebookとか

11月 13th, 2008

人が集まっている場なので友達がいればたまるしいなければ居つかない。
機能やプロモで盛り上がるもんでもないだろうとは思うんだけど、でもやっぱり機能が盛り上がりをサポートすることも無いわけじゃない、と。プロモもまた然り。

じゃぁ人を集める初期プロモが決定的に大事かというとそれよりもバイラルで増えていく人のほうを多く当て込んでいるわけだからやっぱりバイラルを加速させる機能がほしくなる。

卵がさきか、ひよこが先か。
我が家では卵は食べ、ひよこはかわいがるけれども。

コミュニティについて少し考えながら、書き留めておく。

検証仕様書

11月 13th, 2008

検証仕様書のサンプルがあるよ、とね。

プロフェッショナルサービスの可能性

11月 12th, 2008

なんとなく考えていることの殴り書きなので、意味を成していないとしても許してちょーだい。

私が20年来働いているIT業界という奴は、なんだかんだといって実は労働集約産業なのである。
IT業界からのアウトプットがハイテクで人の労働コストを使わずにバリューを提供するのであって、そのバリューを構築するのはあくまでも人の労働なのである。従って、必然的に労働集約型でしかありえない。

労働集約型産業というのはIT業界自らが生み出した「世界をフラットにする」ネットワークやプロダクトのバリュー、さらには「米国式会計基準」の蔓延などによってものの見事にグローバル化してしまったことにある。
その結果、ある程度の素養があれば「誰が作ってもほぼ同じ品質のものが出来上がる」状態になっている。
中国、タイ、ベトナム、フィリピンが日本の工場になったのはご存知のとおりだ。
結果としてユニクロやH&Mなどの低価格/高品質製品で商売が出来るようになっている。
反面、この図式は産業革命当時そのものであってビジネスモデルを握る側と労働を提供する側でひどく収益の「量」に差が出て、貨幣価値そのものにギャップがある国外の労働者はさておき国内のショップで働くおねーちゃんたちは夜のバイトに精を出さなきゃやってられないことになっている。

さて、ここで問題。

割合に安定した貨幣価値ギャップはアメリカの強いドルと強い購買意欲に支えられてきた面があるのだけれど、昨今の成り行き上、ドルが弱くなるとこの貨幣価値ギャップがぐぐっと縮まってくる可能性がある。
平たく言ってしまうと、中国の存在感が増してタイ、ベトナム、マレーシアといったあたりの労働力を強い元でごそっともって行ってしまうようになるんじゃなかろうか。

そうすると、そもそも既に格差社会化、かつ少子高齢化している日本国内でどのように労働力を確保していくかっていうのはものすごい大問題になるんじゃなかろうか。

とすると「物事を予算、工期、品質の面から期待値の枠内に収めます」という…差し配師的な能力はこれまでにも増して重要になるんじゃなかろうか。
それをPMBOKでございと構えるのは簡単だけれども、そういうスキームで理解できる人たち以外の場所で、まさしくそういう能力が求められることになるんじゃなかろうか。

これまでは納期とか品質の「保証」って人脈とか4次受け体制とかでIT業界の場合はなされてきたんだけれど、そういうスキームでは吸収できなくなってきている。業界全体で人員、ファイナンス、案件といった「事業リソース」の量が低下しているから吸収余力がなくなっているのだ。それももとはといえば自らがフラット化しちゃったからに他ならないんだけど。

アメリカのIT屋さんはインフラと基礎パッケージをにぎっているので何とかなるけれど、日本のIT屋さんは「案件を実現する力」を付けないと軒並み御用聞きになって終了じゃねーのかな。

というような意味合いのプロフェッショナルサービスというのが儲かるんじゃねーのかなぁと夢想中。
それって普通に事業コンサル、プロジェクトコンサルじゃねーの、とか思いつつもそういう大上段なのって、上に描いたようなタイトなリソース状況の中では「豊富な社会財」に依存しすぎてる気がするし。

ラナーク/アラスター・グレイ

11月 9th, 2008

「超弩級百科全書的ノベル」「重力の虹+百年の孤独+ユリシーズ」といった大層な帯コピーと、妙に硬直したカバー絵に惹かれて6月に購入した2段組みで700Pあるというすさまじく分厚く、文字量の多い本。

いろいろと高い評価を受けているようなのだけれど、それはどうも1980年代の脱構造化やテクノロジーのクリッピングポイントを迎えたなかでの人間回帰、もっと俗な言い方をすれば「俺ってダメ、を自分自身が感動しながら自愛的に言い張る」ムーブメントに乗っていた結果のような気がする。
つまり、僕にとってはいまいちだったのだ。

大きく分けて、現実をカリカチュアするファンタジー部分と作者の自伝的部分の2つにわかれるのだがそのどちらもが「ダメな俺に俺だけが気がついてないけどそれでも人生は回っていくぜ。」的陰鬱で覆われている。陰鬱に共鳴できるのは湿気の多い島国の連中であり僕もその一人だ。その共鳴だけで何とか読み進めていくわけだが、いつまでたっても陰鬱以外の要素が登場しない。家族を描いても、政治を描いても、ヒューマニズムを描いても、結局は自愛的陰鬱に落ち着くのだ。さすが、湿気に併せて煤煙までもっているグラスゴーの憂鬱は米食って電子部品を作るアジアの陰鬱とは仕込みが違う。
ただ、いずれにせよ引きこもり君の他虐性にも似た「どうして世界は俺を愛してくれないんだ」を700P連続で読まされるのは結構きつい。購入から読了まで3ヶ月近くかかったのはその分量の所為だけではない。

作者は絵もかく人なので構成的な実験や感覚的な描写、ファンタジーの印象などに一定の説得力があり楽しめる。ただやはり百科全書的ノベルでもなければ重力の虹でもない。
世界を理解し、理解されようとするがボタンを掛け違えていることが理解できず我が道を行くしかなかった男の滑稽な悲劇あるは陰惨な喜劇とでも呼んでおくのが正しい。

凍 沢木耕太郎/山野井夫妻

11月 1st, 2008

沢木耕太郎はいわずと知れた「深夜特急」を書いた人。
不勉強で知らなかったのだが、山野井夫妻は山を登る人たちにとってはおそらく私にとってのジャコパストリアスぐらいの天才/変人ぐあいなのだろう尖ったクライマーである。
本書は山野井夫妻が2002年にヒマラヤのギャチュンカンというところへ登りに行って、死にかけて帰ってきた事実のルポルタージュである。

なにがすごいって、死にかけて凍傷で指なくしてるのにそれでもまた山に登りに行くこの夫妻のキチガイっぷりがすさまじい。ストーリーを追いかけているときには高所障害、急な斜面、雪崩、凍傷といったリスクやハンデを乗り越えて生還するお二人の姿に興奮し、感動するのだが、いざ本を閉じてネットで調べてみるとお二人はその後も山に登り続けている。しかも、半端じゃねーのだ。

指をなくす前には、こんなところに登っていらっしゃる。まず、この時点ですさまじく頭が悪い。
登坂ルート
山野井通信より。

指をなくしてからはこんなところである。
登坂その2

お怪我をされるまえの「なるべくロープ酸素などを使わない」アルパインスタイル(というらしい)ではさすがにないようだが、こんな場所は - 比べる方がまず間違っていはいるのだがロープ酸素があっても僕には無理だ。

山野井さん自身も「登る」ことの意味を振り返ったりはしているのだが、まずもって何よりも登ること自体の危険や達成感が彼を、そして夫人を突き動かしている。そうした純粋な意志を沢木耕太郎の的確に事実を写し取る文章が場面毎に力強く、しなやかに取り出して見せる。
一歩引いてみれば、そうした純粋さは気が狂っているとも思える。が、山野井夫妻の欠けた指とお二人が撮ってきた写真、そして沢木氏の文章を見ていくと純粋な意志に対して純粋な興奮と尊敬を返さずにいられない。

まるで小学生のように。

すげーよ、おまえら。そんなところそんな風に登れるなんて。

–追記
「アルパインスタイル」でもロープは使うようです。クイックに、一気に上ってしまうのがアルパインスタイルのようです。
門外漢のため、失礼。