目標、組織、人

8月 23rd, 2009 by tsuyoshi Leave a reply »

司馬遼太郎の「殉死」を読了した。作家は日露戦争の英雄、乃木希典が大嫌いらしくこき下ろしつづけているのだが、読みながらいくつか思うことがあったので記録しておく。

ドラッカー先生曰く、組織は目標に従う。なにを獲得するのかによって、どのような組織であるかが決定されるべきであるという。ただ、何かしらの目標があって、それを獲得するために適当な人材をあてていれば良いけれど、そうはできなかったり、あるいは後から”間違っちゃった”ことに気がついちゃったら…どうすりゃいいんだろう。

日露戦争のときに旅順攻略をまかされて「無能」を証明しちゃった乃木将軍がいい例だけれど、結局だれも彼を更迭出来なかった。彼自身も、自分自身を無能だとは思っていなかったらしい。後付けの理由はあろうけれども、結局それを許容する余裕を社会と組織が持っていたって言うことなんだと思う。”余裕”が社会の慣習とか、関与する人員の教育・啓蒙の不足によるものであろうとも、だ。そういう場合には、「こいつは無能だ」と言ってまわりの大半がそれに同意したとしても、そいつを舞台から降ろす決定打にはならない。逆に、「極論を述べる、現状を打破する工夫のない奴」と返り討ちをもらったりする。

そのような組織で、自浄作用はもちろんない。この様な組織では、目標に指向してではなく職能に指向して編成され、従って部分最適な「作業」が繰り返され、組織体全体の生き残りは関与する全員が問題意識として持っているものの明らかな目標はついに示されない…ことが多い気がする。

僕の知っている範囲では、リーダーの交代以外にこういったマイナスループを解除する方法はない。
別のフレーズに言い換えるならば、そのような気配が見えたならばリーダーは目標を確認し、組織全体のベクトルがそちらを向いていることを確認し、そうでなければ編成を替えなければならない。出来なければ、交代するか、組織全体でダメになりつづけるかだ。

構成員としては、その組織に見切りをつけなきゃいけないが…さて僕にはどれほどの自由度が残っているものか。

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