先週、休みをとって京都旅行に行ってきました。
我が夫婦としては2003年に行った小樽以来の2回目の国内旅行で、なかなかめずらしいのだ。
旅行はとても楽しく、素敵だった。京都はまだ紅葉には少し早かったのだけれど、その分人が少なくて二人でのんびりと回ることが出来たし、「御朱印あつめ」という新しい楽しみを始めることが出来た。
様子の詳細は、こちらのスライドショーでどうぞ。
http://picasaweb.google.com/Tsuyoshi1212/Kyoto2009#slideshow/5398408358180179666
去年のタイ/ベトナム旅行に比べ、まったくサバイバル色がなかったのも素晴らしい。しつこい客引きをするタクシーも、たどたどしかった英語がいつの間にかすさまじく流暢になる「観光ガイド」や「親切な地元の人」もいないのだ。モノを尋ねれば何の見返りもなくても教えてくれるし、モノの値段はきちんと決まっている。何てラクなんだ!!
しかし、わざわざ発展途上の国と比べなくても京都の街や人は、とってもおしゃれだ。
例えば祇園の街や八坂神社のあたりはとても道がキレイで、夕方に歩くととてもロマンチックだ。只の路地なのだけれど、看板の出し方、明かりの付け方が本当にそつがない。原色の光は一切なくて木と石の路地にふんわりと黄白色の光が例えば和紙の灯篭から透けて店名を告げてくれる。洋食の店であっても、その流儀はきちんと踏襲されている。かと言って画一感があるわけではなく、それぞれのお店はきちんと、その流儀を客に伝えている。例えば格子戸が開け放ちであったり、閉めきっていたり、目隠しがあったり、メニューが出ていたり、いなかったり。
そんな一つ一つの店のしつらえを見ているだけでも、とても楽しい。
そんな「わかってる感」は青蓮院や銀閣寺の庭でも味わうことが出来る。何を見ている人に与えるかがものすごく考え抜かれていて、技法や金や地道な作業の繰り返しがぎっしりと詰め込まれているにもかかわらず、泥臭さや汗の匂いは全くない。かといって取り澄ましたような冷たさはもちろんない。ただ、すっきりと優雅なのだ。
もちろん人間そんな素敵なモノだけでは生きていけない。バイタリティーやアクティブな人間像は四条のデパート街や錦市場、先斗町の賑わいが、京都が博物館ではなく人が生きる街であることを改めて教えてくれる。洗練と歴史が日常ときちんと折り合いを付けている様子は、日々「人間の業」が街を増殖させている東京の住人からみると一つの奇跡の様に思えてくる。
僕等が今回泊まったホテルフジタからはとても手軽にあちこちを見て回ることが出来た。10数キロの距離がある大原三千院へも、電車とタクシーを使って1時間弱で行ける。街の反対側にある嵐山へも、30分ほどで行けてしまったりする。錦市場や先斗町へは徒歩で15分。青蓮院、八坂神社は歩いて30分。二条城は電車で10分だ。有名どころでなくても、路地の奥に店を構えているカフェは京都の町家を改造したものだったり、街角に何となくある飴屋が150年の歴史をもっていたり、何の看板も出ていない書道用品店が東京の専門店以上の品揃えがあったり、画材屋さんでは見ているだけでクラクラするきらびやかな和絵の具が壁いっぱいに積まれていたりする。
泊まった場所がよかったのかもしれないけれど、実感としては京都の街はそんなに大きくなくて、そんなコンパクトな街にいろんなモノがギュッとつまっている様子がまた、宝石箱の様なのだ。
とても楽しかった。また、行こう。




