Archive for the ‘レビュー’ category

ドキュメンタリー2点

5月 31st, 2009

この週末に読んだドキュメンタリー2冊のレビュー。

敗れざる者たち – 沢木耕太郎
「深夜特急」を書いた作者が、まだ若い時期のドキュメンタリー数点を集めたもの。
高度成長期の日本で「黒人とのハーフで煮えきらないボクサー」や「長島との対比で語られる巨人のサード達」の姿を素描したもの、と思いきや。
語られるのは「沢木自身の哲学」の枠組みのなかで、素材たちがどのように”順位付けられるか”だった。

若いということはいくつかの利点と不利があるが、世の中に一般的な価値観が存在すると思い込んでいることは大きな不利益だ。そうした若さを、日本自身が持っていた時代の空気を感じ取るにはよいテキストだが、例えば先日レビューした「凍」が素材の描写に徹してなおかつドラマを描いていたのに比べると、若書きが鼻につく。
筆力で読ませるが、人間を掘り下げたドキュメンタリーとしてよりも昭和の若者の感性を味わうのに良い一冊。

だから山谷はやめられねぇ – 塚田努

逆に自身を状況の中へ没入させることによって、日記その物が素材の描写になっている本書は若書きがドラマの一部になっていて気にならない。リアルな「山谷のどうしようもないおっさん」や「飯場の非熟練工」がたくましく、かつだらしなく生きていくさまを塚田の目を通して切実に理解できる。
だからどうだ、という価値観ではなく人間はたくましい生き物なのだ、という事実を噛み締めて読了できる。文中でたびたび触れる優柔不断さとは裏腹な、塚田自身のたくましさも含めて。

My Blueberry Nights

10月 13th, 2008

パリス・ルコントと並んで「切ない映画をとらせたらサイコー」な映画監督であるウォン・カーウァイが歌姫ノラ・ジョーンズを使って撮ったロードムービー、My Blueberry Nights

彼氏に振られちゃった女の子が「家に帰るのに思い切り遠回りして帰ろう」と一年近くをかけてウェイトレスをしながらアメリカを回る。女の子から彼氏の家の鍵を預けられたカフェのオーナーに手紙を書きながら。カフェのオーナーも彼女の帰りを待っている。

ウォン・カーウァイが撮るのは、表情だ。

ストーリーはスクリーンに映し出される役者の表情を味わうための伏線でしかなく、僕はひたすらに戸惑い、興奮し、絶望し、立ち直るニンゲンのカオに魅了される。歌い手であるノラ・ジョーンズが演技の勉強をしたことがあるのかどうかは知らないが、ウォン・カーウァイのこのようなアプローチによって自然で素朴な表情を見せ、映画にフレッシュな印象を与えている。ジュード・ロウも普段のような優男、色男だけではなく、息をし汗をかき毎日ひげを剃るリアルな人間としての印象を伝えてくる。

だからラストシーンでのハッピーエンドが物足りない。

ノラ・ジョーンズが道中で巡り会ったのは主に悲劇で、彼女は傍観者/通過者ではあるけれど悲しみを分け合っている。
ジュード・ロウも自分の過去と向き合い、気持ちに区切りをつけ、ノラ・ジョーンズを迎えている。
であれば、ケーキを食べて眠り込む以外になにかすることがありそうなものだ。

あるいは、そのような具体性を求めてしまうのは世の中にもまれすぎたおっさんの野暮なのかもしれない。そのまま、甘いおとぎ話として味わうべきなのかもしれない。

The Gospel

10月 13th, 2008

ゴスペルコンサートのドキュメンタリーだと勘違いして借りてきた、THE GOSPEL。だってさ、コピーが”ヨランダ・アダムスほかゴスペル界の大御所が集結した感動のゴスペル映画『ゴスペル』”ですよ。パフォーマーが主役だと思うじゃないですか。

中身は非常に聖書/教会的なお説教ストーリーにコンテンポラリーゴスペルが少しまぶされている感じ。
教会の牧師として自分の思うとおりに物事を進めたい「息子1」とR&Bシンガーとして成功したんだけど、死んだオヤジが作った教会を「息子1」に思い通りにされるのが癪に障る「息子2」が、何だかんだと衝突しつつ「そんなの小さいよね!! 完璧な人や組織は無いよ!! 完璧なのは神だけだ!! さぁ、一緒に祈ろう、そしてあしたもがんばろう!!」と大団円な話。

浪花節が好きな僕はすこしはホロッとくるけれど、黒人ではなく教会へ行く文化も持っていないので今ひとつ、リアリティがない。「創価学会での教区内争いを池田大作がうまくさばいた」っていうのとおっつかっつに見える。アメリカ人とか、創価学会の人とか、教区運営が身近な毎日の問題として感じられる人たちにとってはこの大団円は響くんだろうけどね。

男一度は伊勢と吉原

3月 2nd, 2008

映画「さくらん」を見た。
積極/能動的に見たのではなく、ケーブルテレビでやってたのをコーヒー片手に手持ちのDVDをISOファイルに落とす作業をしながらだったが、ビビッドな色彩と強気でかわいらしい女性達が素敵だった。“春を売る”人たちを美しく描くことに抵抗を感じなければ、楽しく見られる「アクティブ・ウーマン」ストーリーだ。

映画を見ていたら昔読んだ杉浦日向子氏の本に「吉原で遊ぶには最低20両」と書いてあったのを思いだして、20両っていくらだろ、と知りたくなった。
日本銀行の解説によれば、大体4万円とのこと。そうするとまぁ、吉原で遊ぶのにかかるのは最低80万円だということになる。

久しぶりに引っ張り出した杉浦氏の本によれば「女性そのもの」の対価は丸一日で1両2朱なので6万円ぐらいだとのこと。が、この「丸一日」ってのがミソ。吉原というのは「女性を買う」というよりも「ジャブジャブと湯水のように金を使う」ためにセットされたような場所だったらしい。もちろん単純に女性を買うこともできたようだが、それは“粋”でも“遊び”でもなかったようだ。吉原での遊びは現地へ船なり籠なりで出かけて、まずパーティーから始まる。料理、酒、芸者さんや幇間などのエンターテナー/ミュージシャンでひとしきり盛り上がるのだ。もちろんボーイさんや店主へのご祝儀も欠かしちゃいけない。女性そのものよりも、その周辺に何倍、何十倍もの金がかかる場所だったのだ。

一度遊ぶ相手を決めたら浮気も許されなかったとのことのなので、目的はやはり単純な快楽ではない。駆け引きを楽しむなど、非日常を金で買うこと、金を実体のないことに注ぎ込むのが吉原での遊びかただった。金を稼ぐことそのものに意味があるように、金を使うことそのものに意味があるとわかっている人間が遊ぶ場所だった。

「男一度は伊勢と吉原」といったらしい。そういう遊び方をしてようやく男の幅が出る、ということだろう。ちなみに伊勢参りも金のかかる道楽道中であったとのこと。

再読:前日島

2月 24th, 2008

ウンベルト・エーコによる「バロック小説」を2年ぶりに再読。ストーリー展開に情緒を求める人にはまったくお勧めしない。

ポストモダン小説によくある階層構造であるメタフィクションと共に、バロックな気分の象徴でもあるだろうアイコニズム、それらと非常に相性の良い、ウンベルト・エーコならではの気合と技術のともなった衒学的意味論が脳みそをこれでもかとかき回してくれる。

イメージと技法に酔っ払ったようになりながら、毒にも薬にもならないプロットを読み進んでいくうちに存在論の迷宮に叩き込まれて突如としてうろたえるハメになる。ただ、この「うろたえ」を味わうためにはあくびの出そうな「鳩の意味」論や「どこかに生き別れの双子の兄がいるはず」という主人公の妄想に付き合わなくちゃいけない。

で、読後に何が?

ウンベルト・エーコが創作した「語り手」が「ロベルトと言う主人公が残した日記」を基にロベルトの漂流を再構築するのだが、ロベルトはロベルトで憧れていた女性と生き別れた兄とのロマンスと冒険を夢想し、さらにこれらの狂言回しとして以下に経度を決定するのかに絡めて日付変更線の向こう側は別の日 - 線をはさんで向こう側は、すぐそこで同じ時間が過ぎているはずなのに別の日付である - という簡単な混乱、共感魔法というバロックらしい小道具によって、誰がどの視点で何の話をしているのか、万華鏡のように様々なパターンを読者は駆け抜けなきゃいけない。

たかだか一冊の本を読む間に視点変位を繰り返させられた僕は軽い眩暈というか「プロット中毒」になっている。いくつもの結末が不明なプロットを解決したいのに、その手がかりは信用できないか、そもそも与えられていないか、最初から「これは妄想だよ」と突き放されているかだ。情緒や感情をプロットのなかで昇華/消化させることで読者がカタルシスを得る、というタイプの楽しみ方は拒否されている。
「だからさぁ、たかが小説じゃん? 意味とかさ、信憑性とかさ、愛とか友情とかは現実世界でやんなよ。そっちの方が楽しいでしょ? 小説では“言葉の魔法”を味わうのが良いんじゃない?」とエーコ先生がほくそえんている気がする。
悔しいがその魔法は、訳者のチカラの抜けたスマートな翻訳も相まってピカイチに美味しい魔法である。ご馳走さまでした。 

Coltrane – My Favorite Things

12月 26th, 2007

「そうだ、京都いこう」のコピーで有名な「My Favorite Things」を初めて真面目に聴いた。
こりゃぁ、たまんねぇぞ。むちゃくちゃにセクシーだ。目の前でこんなサックス吹かれたら押し倒しちゃうかもしれない。

2曲目に入っている「Everytime We Say Goodbye」がまた、堪んないぜ。「サヨナラを言う毎に」っていうセンチメンタルなタイトルを裏切らないロマンチックなメロディーにこれまたセクシーなコルトレーンのサックスが、歌いまくる。
遊び人の使い古したセクシーさではなく、はつらつとした青年がまっすぐに何かを思いつめる時に溢れ出す生命力や意志の力が醸し出す色気と言えば良いだろうか。

3曲め、4曲目は既に蛇足だ。このアルバムは最初の2曲で必要にして充分。
ご馳走さまでした。

REVIEW: This is Speedometer

11月 25th, 2007

我が家は基本的にエンターテイメントの90%をケーブルテレビに依存している。従ってツタヤに行くなんていうのは年に数回だ。ひょっとすると、会員証の更新ぐらいでしか行かないかもしれない。
その、会員証の更新でツタヤを訪れ、Jazz Funkの生きのいいバンドだ、というポップに惹かれて借りてみた。

全体のトーンは少しクラッシックで、なおかつラウンジ色が強くJazz的なかっこよさはそれほどないが、前ノリでスタッカートの聞いたベースとビッグバンド風に煽りを入れてくるホーンがなかなかにダンサブルでよろしい。

SouliveやGaracticのように、うおぉぉぉおぉ!!こいつら骨の随までファンキー!!とまでは気持ちを盛り上げてはくれないが、パーティーで回す皿だったらおしゃれでダンサブルで良いんじゃない?

【レビュー】ボーイズ ドント クライ

11月 20th, 2006

モンスターと同様に実話をベースにした映画。性同一障害の女の子が恋してレイプされて殺される話。

なぜ実話ベースの映画と言う奴はこんなに暗いのか、僕は理由を知っている。 現実世界にはハッピーエンドがあんまりないからだ。 どれだけ幸せな時間があったとしても、そのときに人生が終わるわけじゃない。 それからも人生は続き、笑い、泣き、悲しみ、嬉しがって生きて行くのだ。 そして世の中には悲劇のほうがほんの少しだけ、多い。 善意よりも欲望のほうが少し、多いからだ。

ただ自分を受け入れて欲しいと思っているだけの弱者に対して、なぜ一番弱いところを喜んでつつく奴がいるのか? その理由も単純だ。 そこが弱いからだ。 そして、弱いところをつつくことでは天下一品、という連中がうようよしているからだ。

僕は人のことをつつきたくもないし、つつかれたくもないと思っている。しかし、だ。自分が気がつかないうちに多分、つついている。物理的にではないが、社会的にあるいは心理的、間接的に弱者をレイプしている。我々全員が、そうしている。社会的弱者 - おかま、片輪、子供、女の子、老人が不必要な圧迫を受けている。

などなど、朝日新聞的思考にどっぷり浸れるヘビーな映画。

この映画見なくても「自分と周りの価値観のずれ」とはいつかどこかで対面しなきゃいけない。そのときに胸を張れるか、を問うてくれるという意味ではいい映画だ。

君は、自分の価値観のために生きているか?? その価値観をサポートしてくれる人と生きているか?? その価値観は、誰かをレイプしていないか??

問いは循環し、頭の悪い僕は自己中心主義に相変わらず、帰ってきてしまう。 僕は僕を、徹頭徹尾支持する。 文句のある奴は、かかって来い。

【レビュー】オペラ座の怪人

11月 12th, 2006

劇団四季じゃなくて、映画のほう。

ストーリーは…どうでもいいや。愛がどうこうとか言うんじゃなくて、絢爛豪華なオペラ座の舞台と薄暗い舞台裏とのコントラストのなかで、美男美女が歌い、踊るのを楽しむのが正しい。お好みであれば、オペラ座に住む「怪人」-見た目を気にして引きこもってるモジモジ君のかなわぬ恋に同情の涙を流すのもいいだろう。僕の趣味では、ないけれど。

怪人をやってる役者はいい男。残念なのは歌が今ひとつ。下手ではないが、心を捉えるほどではない。対して、主役の女の子はすばらしい。可憐さ、色気、そして歌声が画面からこぼれてくる感じ。吹き替えなしでやっているという歌もまさしく心を捉える。

ごった返した舞台裏の感じや支配人やステージマスターなどの胡散臭さ加減もよろしい。なんといってもあの高名なテーマが朗々と鳴り響くと、わくわくする。「オペラ座の怪人は、ここにいる。私の心の中に!!」

わ〜たしのた〜めにうた〜うのだぁ〜!!
リラックスした休日のエンタテイメントに、おすすめ。

オペラ座の怪人 通常版

【レビュー】モンスター

11月 9th, 2006

シャリーズ・セロンがすげぇ。 石鹸の宣伝やらせたのはどこの阿呆だ。饐えた汗の匂いがする、不細工な娼婦を見事に演じている。 無様にたるんだ体のラインが女優としての覚悟を伝える。

画面の中では醜い人間が、お互いを傷つけあう。体のたるんだ娼婦、目先の快楽しか見ない同性愛の少女。 娼婦を買う男、娼婦を買おうとして殺される男、娼婦を救おうとして殺される男。

しかし、誰もが、幸せに、なりたがっているのだ。ほんわかとあたたかい、本物の幸せではないのだけれど。

女を買わねばならない男は安直な幸せのためにそうするのだし、娼婦は生き延びるために体を売る。体を売る以外に生き延びるすべがないから、そうする。「生き延びる」ことから抜け出そうとしたときに - もっと金を稼がなきゃいけなくなったときに - 娼婦には客を殺すしか手段が無かった。でなければ少女の歓心 - 娼婦が愛と誤解しているものを失うからだ。

ふざけんなよ、と思う。
皆がもう少しづつだけ優しければ、物事の順番がもう少し違っていたら。
全く違う物語が、そこにはあったはずだ。

とまぁ、シリアスに考え込んでしまう物語を本来は”かわいいねーちゃん”であるシャリーズ・セロンが体重をどっさり増やしてごりごりと伝えてくれる。

必見。

モンスター 通常版