gigimakiさんのやっているBlogumentalyのちょっとした改修をお手伝いしたお礼にもらった絵本。
松居氏のスクリプトは一人で歩くこと、祈ること、誰かと一緒に歩くこと、語り合うことをいろんな距離感で語っていく。絵を書いている馬場氏は、ものすごいエネルギーを画面に詰め込んでいる。抽象/印象派というよりも、いわゆる野獣派に近い筆致であると思う。
正直に言おう。
文章は、余計だ。馬場氏の絵だけで、きっちりとテーマが伝わる。
僕が野獣派が大好きであるからかもしれないけれど。
gigimakiさんのやっているBlogumentalyのちょっとした改修をお手伝いしたお礼にもらった絵本。
松居氏のスクリプトは一人で歩くこと、祈ること、誰かと一緒に歩くこと、語り合うことをいろんな距離感で語っていく。絵を書いている馬場氏は、ものすごいエネルギーを画面に詰め込んでいる。抽象/印象派というよりも、いわゆる野獣派に近い筆致であると思う。
正直に言おう。
文章は、余計だ。馬場氏の絵だけで、きっちりとテーマが伝わる。
僕が野獣派が大好きであるからかもしれないけれど。
プリーストと佐藤亜記は小説界のジョン・シナとバチスタといってもよい、と思っている。本書もやはり、重量級のエンタテイメントである。
プリーストは映画化された「奇術師」や「魔法」などでも同一性の危うさを描いている。が、例えば精神世界の描写に同一性の混濁を表現させた筒井康隆の「パプリカ」と比べると、徹底した歴史資料の読み込みに基づくミスディレクションの構築、小さな矛盾の積み上げ、大きな矛盾のためらいのない断定、異なる世界を乱暴に一つの器に盛り込みつつも、それぞれの世界を微細なまでに描写して見せる筆力と構築力は帯に書かれた「完璧な小説」という讃辞もさもありなん、である。
その分、読者にはやさしくない。
この本の読者は濃密な感情と時代の描写を咀嚼し、理解しながら、同時に矛盾を解き明かさなければならない。そして、残念ながら矛盾は明かされない。絡み合ったプロットと説明は、そのどれが正解であるのかを判別させてくれない。読了しても、読者は何を基準に状況を理解すれば良いのかわからず、呆然とせざるを得ないのだ。原題「The Separation」の通り、分割されたいくつもの現実が絡み合うなかに、読者も巻き込まれてしまう。主人公の双生児達の混乱と矛盾を共有し、小説は終わる。
作者は数百冊の背景資料に目を通してから本書を書いたそうだ。
どおりで、ディテールは分厚く人物は生々しい。
つまり、ものすごく面白いってことです。
僕の大好きなロバート・A・ハインラインを「アルジャーノンに花束を」を訳した小尾芙佐が訳し直したもの。これは読まずにいられようか。
期待に違わず、良い。
今回の小尾版は、福島版に比べてよりやわらかな文体で「技術バカで頭に血が上りやすくて、でも未来を信じて努力を止めない」ヒーローのドタバタを…そうだな、スケッチしているとでもいえばいいかな。
旧訳である福島正美版はテンポと歯切れの良い、「強いアメリカ」、「勧善懲悪」的な”物語のフレームワーク”を感じさせるものだったが、小尾版はひらがなの多用や、福島版が訳さなかった、あるいは置き換えたセンテンスを訳すことでより主人公の主観に沿った物語になっている。読者はより素直に主人公のドタバタを味わえるようになっている。
さらに何といっても、福島版で垣間見える「テクノロジーへの憧れや無条件な信頼」が本作ではそれほど度感じられない。
2009年の今では、本作に描かれた「夢の2001年」程度のテクノロジーではもう誰もビックリしない。「歯医者が写真をとりたがる、夢の歯の再生治療」ですら、先週実験に成功したニュースが出ているし、「劇場全体が無重力になる映動」が体験したければスクリーンと座席の動きで脳を騙すやつがディズニーランドにある。なにより「常識と科学と工業技術で、今日より明日がよくなる」なぞと信じ込んでいる奴は、うちの会社の社長ぐらいだろう。
かかれた当時には作品の主要な「味わい」であった技術やタイムトラベルは - それなりのページ数が説明に咲かれているのは『翻訳』であるから致し方ないとして - 既に小道具に過ぎない。それよりも味わうべきは「よりよい明日に向かって今できることを最大限にやる」主人公と猫のピートの心意気だ。「家じゅうのドアを開けてみれば、そのなかのどれかひとつは必ず、”夏への扉”なのだという信念を絶対に曲げようとしない。」という”絶対楽観主義”こそが本作の醍醐味であって、たのしむべきメッセージだ。
ということで、メッセージがより楽しめる小尾版をおすすめする。
でも、もし主人公と僕が仕事をしたとしたら…「僕がこれで完成といったら製品は君のものだ」とか言われたら「ふざけるな! 健全なキャシュフローをもたらす顧客こそが神、神への忠誠はPDCAサイクルによるのみ!オマエの自己満足は神への捧げ物にはならぬ!」と言ってしまうだろうな。こと、商業性については天才の仕事よりも地道な製品ライフサイクル管理の方が幸せにできる人数は多いもの。
ニューヨークやロンドンに「ダンサーになりたい」とか「絵描きとして成功したい」など”文化的な成功”を志して移住や長期滞在して行く若い日本人を出発前、滞在中、帰国後を追っていき「なぜ行くのか」、「行った後にその地域への帰属感は生じるのか」を解決するべき疑問として展開する文化人類学の論文である。
とてもおもしろかった。以下箇条書きで興味を持ったポイントを示しておく。
「日本が国際的に存在感を増すチャンスだ」っていうエントリをこないだかいたのだけれど、それが「何かを当然とした基準」で展開されるとやっぱりいかんのだよなぁ、と再確認もした。そういう基準をセットすると、それから外れる文化の人たちをはじき出し、反作用としてその人たちのイデオロギーが純化し、ひどいときは原理化して面倒くさくなっちゃうからだ。
同時にそういう原理化はもっと日常的に、国内の職場とか学校とかの小さなグループでも起こっていて、いじめの根拠になってるんじゃないかという気もする。
就職もままならない国内よりもTV、雑誌等で活発な文化活動が伝えられる海外の方が成功の可能性が高いように感じ、渡航を決めた若者たちが英語の習得よりも同じような若者どうしでの交流や英語を使わずにすむ日本レストランや日本人向けパブなどでの不法就労で月日を過ごしてしまう姿は、なんだかすこし哀れだ。研究論文なので淡々と観察された事実が述べられて行くのだけれど、”日本で彼らに起こらなかったこと(当該分野での成功や他者との積極的な交流)は海外でも起こらない”という記述が、リアルに彼らを表している。
しかし、こういう側面をどのようにさばいていくかがおそらく将来移民を受け入れていく必要がある/アジアで存在感を出さなきゃいけないこの国にとっては大きなテーマじゃねーかなとも思う。
「超弩級百科全書的ノベル」「重力の虹+百年の孤独+ユリシーズ」といった大層な帯コピーと、妙に硬直したカバー絵に惹かれて6月に購入した2段組みで700Pあるというすさまじく分厚く、文字量の多い本。
いろいろと高い評価を受けているようなのだけれど、それはどうも1980年代の脱構造化やテクノロジーのクリッピングポイントを迎えたなかでの人間回帰、もっと俗な言い方をすれば「俺ってダメ、を自分自身が感動しながら自愛的に言い張る」ムーブメントに乗っていた結果のような気がする。
つまり、僕にとってはいまいちだったのだ。
大きく分けて、現実をカリカチュアするファンタジー部分と作者の自伝的部分の2つにわかれるのだがそのどちらもが「ダメな俺に俺だけが気がついてないけどそれでも人生は回っていくぜ。」的陰鬱で覆われている。陰鬱に共鳴できるのは湿気の多い島国の連中であり僕もその一人だ。その共鳴だけで何とか読み進めていくわけだが、いつまでたっても陰鬱以外の要素が登場しない。家族を描いても、政治を描いても、ヒューマニズムを描いても、結局は自愛的陰鬱に落ち着くのだ。さすが、湿気に併せて煤煙までもっているグラスゴーの憂鬱は米食って電子部品を作るアジアの陰鬱とは仕込みが違う。
ただ、いずれにせよ引きこもり君の他虐性にも似た「どうして世界は俺を愛してくれないんだ」を700P連続で読まされるのは結構きつい。購入から読了まで3ヶ月近くかかったのはその分量の所為だけではない。
作者は絵もかく人なので構成的な実験や感覚的な描写、ファンタジーの印象などに一定の説得力があり楽しめる。ただやはり百科全書的ノベルでもなければ重力の虹でもない。
世界を理解し、理解されようとするがボタンを掛け違えていることが理解できず我が道を行くしかなかった男の滑稽な悲劇あるは陰惨な喜劇とでも呼んでおくのが正しい。
沢木耕太郎はいわずと知れた「深夜特急」を書いた人。
不勉強で知らなかったのだが、山野井夫妻は山を登る人たちにとってはおそらく私にとってのジャコパストリアスぐらいの天才/変人ぐあいなのだろう尖ったクライマーである。
本書は山野井夫妻が2002年にヒマラヤのギャチュンカンというところへ登りに行って、死にかけて帰ってきた事実のルポルタージュである。
なにがすごいって、死にかけて凍傷で指なくしてるのにそれでもまた山に登りに行くこの夫妻のキチガイっぷりがすさまじい。ストーリーを追いかけているときには高所障害、急な斜面、雪崩、凍傷といったリスクやハンデを乗り越えて生還するお二人の姿に興奮し、感動するのだが、いざ本を閉じてネットで調べてみるとお二人はその後も山に登り続けている。しかも、半端じゃねーのだ。
指をなくす前には、こんなところに登っていらっしゃる。まず、この時点ですさまじく頭が悪い。
山野井通信より。
指をなくしてからはこんなところである。

お怪我をされるまえの「なるべくロープ酸素などを使わない」アルパインスタイル(というらしい)ではさすがにないようだが、こんな場所は - 比べる方がまず間違っていはいるのだがロープ酸素があっても僕には無理だ。
山野井さん自身も「登る」ことの意味を振り返ったりはしているのだが、まずもって何よりも登ること自体の危険や達成感が彼を、そして夫人を突き動かしている。そうした純粋な意志を沢木耕太郎の的確に事実を写し取る文章が場面毎に力強く、しなやかに取り出して見せる。
一歩引いてみれば、そうした純粋さは気が狂っているとも思える。が、山野井夫妻の欠けた指とお二人が撮ってきた写真、そして沢木氏の文章を見ていくと純粋な意志に対して純粋な興奮と尊敬を返さずにいられない。
まるで小学生のように。
すげーよ、おまえら。そんなところそんな風に登れるなんて。
–追記
「アルパインスタイル」でもロープは使うようです。クイックに、一気に上ってしまうのがアルパインスタイルのようです。
門外漢のため、失礼。
何か最近、読書録しかつけてない。精神生活にLIVE感がないということかも…対応せねばいかんな。
で。この本。SFの中では古典として確立されているようなのだが、どうもいけない。
テレポーテーションが当たり前になった世界で、宇宙で遭難していたのを見捨てられた主人公が見捨てた船を探し出して復讐するという筋のなかでテレポーテーションが必要な理由が、見当たらない。必然性が、ない。
主人公の怒りの情念がマオリ族の入れ墨に重ね合わされ、感情の高まりとともに虎の文様となって浮かび上がるさまはドラマチックではあるけれど、テクノロジーの夢想や着想がまずあり、ストーリーをあとから加えたような感じがする。
戦争や政治、社会力学などについての洞察、理論的な裏付けはきちんと整理されていて読んでいて破綻を感じさせない。ドラマにきちんとした背骨を与えている。とか思っていたら、これは1956年の発表だそうだ。冷戦が始まったばかりのリアティがたしかに、反映されている。
中途半端な感じを持ちながらもとにかく一気に読了したのは、なにか響くものがあったからだと思う。一旦おいて、再読したらなぜこの本が「SF不朽の名作」と銘打たれ、大友克洋氏が絶賛しているのかがわかるかもしれない。
この作家の本はこれだけしか持っていない。5つの中編が納められているが、これがどうにもこうにも粒ぞろいでおもしろい。技法としてどうこうといった、僕が好きそうな要素はあまりない。が、プロットの着想のよさ、語りの上手さがピカイチである。
例えば「バンコクに死す」。吸血鬼を殺すにはどうするか? 銀の弾丸や日の光で殺してしまってはつまらない。何とかして気づかれずにそっと殺すにはどうするか? こうした着想から始まって、濃密なエロティックサスペンスに話をまとめ上げている。
例えば「大いなる恋人」。レマルクに東映映画の「203高地」、さらに戦場詩人というこれまたロマンティックなんだか大馬鹿なんだかよくわからんものを足しこんで、ミニマリズム風にディテールを描いて見せる。ストーリーは無いに等しいが、書き込みのディテールがグイグイと興味を引っ張って緊張感を維持したまま読み通せる。塹壕の泥の匂いがしてくるようだ、と言えばわかりやすいだろうか。
上手い作家なのでこれ一冊で満足して次に行かなかったのかもしれない。
友人にガルシア・マルケスを貸したらお返しに貸してくれた本。イタリア人がポルトガルのリスボンで生きている人、死んでいる人と出会い、語る夏の半日をつづった小品。
全編、一人称で語られていく。が、発言しているのが「私」なのかその時会話している相手なのかが会話のリズムと内容から読み手が判断していかなければいけないようにかかれている。ここでコンテキストとテキストは境界線を曖昧にしている。さらに「私」が会う人たちで生きているのは「私」がはじめて会う人たちだ。「私」の友人はみな、死んでいる。「私」は死人と語るために生きている人たちの助けを借りて、リスボンの半日を送る。また、作中に出てくる食い物がやたらと美味そうなのも印象的だ。
この小説が、作中で最後に「私」と飯を食うポルトガルの詩人への鎮魂歌〈レクイエム〉であるのだとすれば、このような体裁になるのもむべなるかなである。詩人の魂が作家に同化し、内なる対話がなされているのだとすればテキストとコンテキストは対位ではなく同調し、見分けがつかなくなっていくだろう。作家の血肉になった”ポルトガル”が現実感を持っていなくても、それはすでに幻想と現実の区別をする必要もない解釈不要な実体なのだから、現実感がないのも当たり前だ。
そうした気安い脱構築を見せながらも「プロット、アバンギャルド、ミニマリズム、具体的事実、ポストモダン…心地よい物語はどうすれば語れるだろうか」と作家はメッセージしてくる。そのくせに本作はプロットで構成され、アバンギャルドな世界観を持ち、ディテールとシーンの描写においてミニマリズム的であり、ポストモダン作家へのオマージュに満ちたレクイエムである。最後のシーンが海辺のレストランで「文学にちなんだヌーベルキュイジーヌ〈新しい料理〉」を「ゲイのウェイター」がサーブするのも、文学的玉手箱ないしは現代文学幕の内弁当ともいえそうな本作を象徴するだろう。あるいは、作中でも触れられているボスの絵画と相似するのかもしれない。世紀が変わり、国家がアイデンティティーをなくし、ボーダーレスでフラットな価値観が拡がっていく時代において、土地の文化と不可分な「文学」や「料理」は過剰なディテールにあふれ背景を理解しなければ意味のわからないアクセントにまみれた奇怪な精密画になっていくのだ。
しかし、イタリア人というのは!! ラテン/ローマ文化は酔狂をやらせたら筋金入りである。「お話になってないお話」を能書き抜きで出版し、おもしろいと感じさせることができる。すごいもんだ。